滝の音

滝の音

名こそ流れてなお聞こえけれ

抽象化の依存元

ある人に頼んだらバッグを買ってもらえた。

↓抽象化

A:あるひとは何でも買ってくれる。

B:人はだれでもバッグを買ってくれる。

 

冷蔵庫を開けたら玉ねぎが入っていた。

↓抽象化

C:冷蔵庫には何でも入っている。

D:何を開けても玉ねぎが入っている。

 

 

A,B,C,Dのうち、まぁ頷いても良いなと思うものはどれでしょう。

 Dはちょっと厳しそうですかね。いままで開けたことがあるものに必ず玉ねぎが入っていたなら可能か?

Bは一見厳しそうだけど、「バッグを買ってもらった自分」について語っている場合は起こりうるのかも。

BとDは自己の体験に依存しますね。

 

AとCは「なんでも」の範囲が一致していれば頷けないこともない。

まさかAで買ってもらうものが「フェルマーの最終定理」だったり。

Cで入っているものが「織田信長」だとは思いませんよね。

でも解釈が必要な「なんでも」は抽象化として不出来では??

つまりAとCは自己の認識に依存します。

 

 

大抵の人は数少ない事例を抽象化して、真理のごとく語ります。

自分もそうです。

それをしてはいけないとは思いませんが。

その時にひとつだけ気にかけなければならないことが。

 

その抽象化は何に依存しているか。

 

依存元が一致しない人は首をたてにはふらない。

大抵の人の抽象的な話がしっくりこない原因はそこにあるんじゃないかと。

 

依存元のいらない抽象化ってあるんでしょうか。

ありそうだけど今は思い付かない。

思い付く方は教えてください。

 

おわり。